By ゆうと | 10月 31, 2012 - 4:07 pm - Posted in 未分類

親鸞聖人が体得なされ、あきらかにされた「信心」は、

「他力の信心」 「真実の信心」 「二種深信」 とも言われます。

二種深信とは、正確には、機法二種深信といいます。

「深信」とは、文字から想像する「深く信ずる」という世間一般で

思われる意味ではなく、ツユチリほどの疑心も無くなったことを

いいます。「真知」「明知」 ともいわれます。

二種深信とは、機の深信、法の深信、の二つです。

機の深信の「機」とは、私、自分、のこと。

つまり、自分のことがハッキリするということです。

自分のことは自分が一番よくわかっている、と私たちは思って

いますが、本当にそうでしょうか。

親鸞会での法話案内は、ホームページをご覧下さい。

親鸞会で、本当の親鸞聖人の教えを聞きましょう。

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By ゆうと | 8月 30, 2012 - 3:54 pm - Posted in 未分類

他力の信心の「信心」とは、ツユチリほどの疑心もなくなった深信である

ことをお話していました。親鸞聖人の仰言る「信心」「信ずる」は、みな

この深信です。

「さらに親鸞、珍しき法をひろめず。如来の教法を我も信じ、人にも教え

きかしむるばかりなり」 有名なお言葉ですが、ここにある「我も信じ」も、

深信のことです。

親鸞会で、他力の信心、真実の信心とは何か、聞かせて頂きましょう。

親鸞会の行事は、ホームページをご覧ください。

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親鸞聖人が、「信心」「信」「信ずる」と、書かれているところは、

世間一般でいわれる「信心」や「信じる」とは、まったく意味が

ことなりますので、注意に注意が必要です。

よく「あなたのことを信じています」 「我が校にはイジメはなかった

と信じています」 などと言っているのを聞きます。

ふつう、「疑っていない」=「信じる」 と思っていますが、

疑いが無ければ、信ずる必要もないのです。疑いがあるから、

それを押さえつけるために、信じよう、とするのです。

「ひょっとしたらイジメはあったかもしれない」という疑いがある

から、「信じています」などという言葉が出るのです。

世間の宗教でいう「信じる」「信心」も、みなこれと同じ類で、

疑いがあるから、信じよう、信じよう、とするのです。

親鸞聖人のいわれる「信心」「信ずる」は、そのようなものとは

全くことなり、疑いのつゆちりほども無くなったことを仰言るのです。

これを仏教では、深信とか、真知、明知、と言われます。

親鸞会で、正しい親鸞聖人の教えを聞かせて頂きましょう。

親鸞会の行事案内は、公式サイトをご覧ください。

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By ゆうと | 1月 3, 2012 - 8:42 am - Posted in 未分類

親鸞聖人が仰言る「信心」 とは、世間一般で言われる信心とは全く

異なりますので、「他力の信心」「真実の信心」と言われます。

阿弥陀仏の本願文のお言葉で言いますと、「信楽」 (しんぎょう、と読みます)

と同じです。

大宇宙の仏の本師本仏である阿弥陀如来は、その本願に、

「すべての人を、必ず信楽の心(絶対の幸福)にしてみせる」

と誓われています。

信楽とは、歎異抄でいえば無碍の一道、今日の言葉でいえば、絶対の幸福、

ということです。 阿弥陀如来のお力によって、無碍の一道、絶対の幸福に

なったことを、信心、信楽、あるいは、信心決定、信心獲得、というのです。

親鸞会の二千畳では、毎月、親鸞聖人の本当の教えを聞くことができます。

親鸞会のホームページをご覧ください。

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By ゆうと | 11月 21, 2011 - 9:53 am - Posted in 未分類

親鸞聖人の書かれたものは、沢山ありますが、お聖教といいます。

覚如上人の書かれたものも、御伝鈔、執持鈔、改邪鈔などいろいろありますが、
お聖教といいます。真宗聖典にのっています。

蓮如上人の書かれたものは、御文章などですが、お聖教といわれ、
真宗聖典にのっています。

また、七高僧の書かれたものもお聖教であり、さかのぼれば、お釈迦様の
説かれた一切経もお聖教です。

釈迦、七高僧、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人のお書きくだされたものを
お聖教と言いますが、書かれていることは、共通しています。

一切の聖教というも、南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなり。
(御文章)

蓮如上人の仰言るとおり、すべてのお聖教に書かれていることは、
南無阿弥陀仏の六字を私たちに信じさせ、与えるために書かれたものです。

無駄なことは一切書かれていません。
南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめる、とはどういうことでしょうか。
他力の信心を獲させる、といっても同じです。

親鸞会の二千畳の会館で、聞かせて頂きましょう。
親鸞会の行事案内は、ホームページで知ることができます。

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By ゆうと | 10月 16, 2011 - 10:07 am - Posted in 未分類

阿弥陀仏に救われたことを、信心獲得、信心決定、と仏教で言います。

この信心とは、世間一般でいわれる“信心”とはまるっきりことなりますので、

真実信心、とか、他力の信心、二種深信、などと言われます。

一念で、阿弥陀如来より、二つのものを頂いたことを、真実信心ともいう

のです。これを如来二種の廻向、といいます。

ここでいわれる如来とは、阿弥陀如来。

二種とは二種類の、二つの。

廻向とは、あたえる、さしむける。親鸞聖人が廻向と使われたら、

他力廻向に決まっております。阿弥陀仏から私たちに、与えてくださるのです。

その二つとは、往相と還相です。 では、それぞれどんな意味でしょうか。

親鸞会の750回忌法要では、この二種の廻向を聴聞させて頂きました。

親鸞会で、本当の親鸞聖人の教えを聞きましょう。

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By ゆうと | 8月 30, 2011 - 2:00 pm - Posted in 未分類

数ある仏教書の中で、最も有名なものは、「歎異抄」 ではないでしょうか。

高校の教科書などでも、必ずといっていいほど、出ています。

今から約650年前に書かれたもの、と言われており、著者不明です。

流れるような美文、名文で、親鸞聖人の教え、他力信心の極致が書かれて

います。 親鸞聖人が世界の光であり、親鸞聖人の教えを知りたい人は

歎異抄を読むのですが、ひじょうに誤解しやすい箇所が、多くあります。

全部で18章からなりますが、1章にすべて納まります。

その1章の中でも、特に大事な部分が、「信心を要とすとしるべし」

の一文なのです。 これは一体、どのような意味でしょうか。

歎異抄の真意は、教行信証に基づかねば、わかりません。

親鸞会館で、本当の親鸞聖人の教えを聞きましょう。

親鸞会の法話は、全国各地でも行われています。

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By ゆうと | 7月 31, 2011 - 10:32 am - Posted in 未分類

信心獲得したら、「外の雑縁さらになし」になる、と、

親鸞聖人は仰言っています。

「外の雑縁さらになし」 とは、有名な歎異抄でいいますと、

「無碍の一道」 ということです。

無明の闇が破れて、往生一定の大安心になりますが、

その往生一定の碍りになるものは、何一つなくなります。

犯したどんな罪悪も、往生一定の碍りにはなりません。

今日の言葉でいえば、絶対の幸福といえましょう。

阿弥陀仏は、すべての人を、必ず、絶対の幸福に救いとる、

という本願を建てておられるのです。

親鸞会で、その阿弥陀仏の本願を聞かせて頂きましょう。

親鸞会の法話案内は、ホームページをご覧ください。

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By ゆうと | 6月 28, 2011 - 9:36 pm - Posted in 未分類

親鸞聖人の教えられた信心は、

他力の信心、真実の信心、など、いろいろな言い方をされます。

そして、その信心は、「獲た」ということのある信心です。

それゆえ、信心を獲た、信心を獲よ、信心をとる、などと言われます。

これは、親鸞聖人の教えられた信心しか、使われない言葉であり、

世間の宗教にはありません。

そして、親鸞聖人も、蓮如上人も、はやく信心を獲得せよ、と、

これ一つ生涯教えてゆかれました。

親鸞会で教えられていることも、このこと一つです。

では、信心獲得したら、どうなるのか。

親鸞聖人は、次のように仰せです。

「利他の信楽うる人は 願に相応するゆえに

教と仏語にしたがえば 外の雑縁さらになし」

まず、利他の信楽とは、他力の信心のことです。その他力の信心

を「うる人は」と、親鸞聖人は仰言っています。

「外の雑縁さらになくなる」と、仰言っています。

これはどんな意味でしょうか。 親鸞会では、毎月、正信偈の

話がなされています。

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By ゆうと | 6月 3, 2011 - 9:03 am - Posted in 未分類

浄土真宗親鸞会では、親鸞聖人の本当の教えが説かれています。

今日、世界の光と言われる親鸞聖人の教えは、親鸞会でしか聞くことが

できないでしょう。 東西の本願寺をはじめ、真宗十派は、十劫安心、

称名正因の異安心となり、寺には誰もよりつかず、葬式法事をなりわい

としているのが実情です。

「この信心を獲得せずば極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべし」

信心獲得しなければ、死ねば無間地獄へ堕ちねばなりません。

これを、後生の一大事といいます。

これ以上の大事はありませんから、“一”大事、といわれるのです。

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