親鸞聖人が、「信心」「信」「信ずる」と、書かれているところは、

世間一般でいわれる「信心」や「信じる」とは、まったく意味が

ことなりますので、注意に注意が必要です。

よく「あなたのことを信じています」 「我が校にはイジメはなかった

と信じています」 などと言っているのを聞きます。

ふつう、「疑っていない」=「信じる」 と思っていますが、

疑いが無ければ、信ずる必要もないのです。疑いがあるから、

それを押さえつけるために、信じよう、とするのです。

「ひょっとしたらイジメはあったかもしれない」という疑いがある

から、「信じています」などという言葉が出るのです。

世間の宗教でいう「信じる」「信心」も、みなこれと同じ類で、

疑いがあるから、信じよう、信じよう、とするのです。

親鸞聖人のいわれる「信心」「信ずる」は、そのようなものとは

全くことなり、疑いのつゆちりほども無くなったことを仰言るのです。

これを仏教では、深信とか、真知、明知、と言われます。

親鸞会で、正しい親鸞聖人の教えを聞かせて頂きましょう。

親鸞会の行事案内は、公式サイトをご覧ください。

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By ゆうと | 3月 5, 2010 - 9:12 am - Posted in 信心とは, 正しい信心

以上でお分かりのように、阿弥陀如来から南無阿弥陀仏の名号を一念で

賜わり、苦悩の根元である無明の闇を破って頂き、往生一定の心になった

のを、「信心」 と、浄土真宗ではいわれるのです。

「無碍光如来の名号と かの光明智相とは

無明長夜の闇を破し 衆生の志願を満てたまう」 (親鸞聖人)

無礙光如来とは阿弥陀如来のこと。阿弥陀如来のつくられた名号には

苦悩の根元である無明の闇をやぶり、衆生の上に、阿弥陀如来の志願

(私たちをこの世から未来永遠の幸福にしてやりたい)を満足させる働き

がある、という意味です。

そして、

「この仏心(名号)を凡夫の方に授けましますとき、信心とは名づくるものなり」

(蓮如上人)

と蓮如上人も仰言るとおり、破闇満願の力のある名号と私(凡夫)が一体に

なったこと(これを仏凡一体という)を、信心、あるいは、信心決定、

信心獲得、といわれるのです。

ですから、浄土真宗の“信心” とは、キリスト教やイスラム教、日本神道で

いうような“信心”とは、まったく異なるのです。

浄土真宗親鸞会では、親鸞聖人が明らかにされた“正しい信心”“真実の信心”

一つを開顕するために存在します。“他力の信心”とは、いかなるものか、

聞きたい、という方は、親鸞会で聴聞してください。

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By ゆうと | 1月 8, 2010 - 3:41 pm - Posted in 信心とは

阿弥陀如来の作られた名号を、私が受取ったのが信心(信心決定、信心獲得)でした。
では、南無阿弥陀仏の名号には、どんな働き、力があるのでしょうか。
お釈迦様は、お亡くなりになるときに、「私は生涯、名号の功徳一つを説いてきたが、
とても説きつくすことができなかった。百千万劫かかっても説きつくすことはできないで
あろう」 と仰言っています。

正信偈には、「功徳の大宝海」とか「本願の大智海」と、親鸞聖人は仰言っています。

その南無阿弥陀仏の名号の働きを、漢字4字で言うなら、「破闇満願」 であります。
闇を破り、願いを満たす働きがあるのです。

闇とは、無明の闇のことです。
無明の闇とは、疑情ともいわれ、すべての人間の苦しみの根元です。
古今東西の全人類は、みな苦しんでいる。無ければ無いで苦しみ、有ればあったで
苦しむ。大統領からホームレスにいたるまで、みな苦しみ悩んで、安心も満足もでき
ないでいる。経済や科学が進歩発展しても、人間の苦しみは変わらず、自殺者は増え
ています。

阿弥陀如来は、すべての人の苦悩の根元は何か、徹底的に調査され、疑情(無明の闇)
一つである、とつきとめられました。

流転輪廻の際なきは、疑情のさわりにしくぞなき (和讃)

還来生死輪転家 決以疑情為所止 (正信偈)

と、親鸞聖人も教えておられます。
では、疑情、無明の闇とはなにか、続けて話をしたいと思います。

親鸞聖人の教えをもっと知りたい方は、次のサイトを参照してください。

親鸞会ブログポータル

親鸞会.NET

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By ゆうと | 9月 26, 2009 - 11:23 am - Posted in 信心とは, 正しい信心

私たちは、みんな何かを信じて生きている、いわゆる信心を持っています。

そして、信じていたものに裏切られたときに、苦しみ、悩みます。

しかも、深く信じていればいるほど、それらに裏切られたときの悲しみや

怒りは大きくなります。

私たちは、けっして、苦しんだり、悲しんだりするために、生まれてきたのでは

ありません。生きているのでもありません。幸福を求めて生きています。

では、裏切らないものを信じて、私たちは生きているでしょうか。

たとえ、70年、80年、信じられるものがあったとしても、最後、私たちは

死なねばなりません。 いよいよ死んでいくときには、信じていた家族も、

健康も、財産も、すべて我が身から離れて、この肉体さえも焼いてゆかねば

なりません。

裏切るものばかりを信じて生きているから、苦しみ、悩みがたえないのだ、

本当の幸福になりたければ、絶対に裏切ることのない、正しい信心を持ちな

さいよ、と親鸞聖人が教えられているのが、正信偈であります。

正信偈の「正」という字は、一に止まる、と書きます。正しいものは一つしかない、

ということです。 では、その唯一つしかない、正しい信心とはなんなのか、

次回からお話したいと思います。

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親鸞聖人が、その生涯をかけて書き残された大著が、教行信証六巻です。

ですから、教行信証には、親鸞聖人90年の教えのすべてがおさまっています。

その教行信証を、圧縮されたのが「正信偈」であります。

「帰命無量寿如来 南無不可思議光」ではじまる、一行七文字、120行で、

全部で840字です。

漢字ばかりで書かれていますので、お経だと思っている人がありますが、

正信偈はお経ではありません。お経はお釈迦様のお言葉を書き残したもの

ですが、正信偈は親鸞聖人の書かれたものですから、お経とは違います。

「偈」とは、歌、ということですから、正信偈は、正しい信心の歌、ということです。

「信心」と聞くと、自分とは何の関係もないことだと思われる人もあるかもしれませんが、

私たちは何かを信じなければ、一日たりとも生きてはおれません。

たとえば、明日も生きておれる、と生命を信じて生きています。

いつまでもたっしゃでおれる、と、健康を信じて生きています。

夫は妻を、妻は夫を信じ、親は子供を、子供は親を信じて生きています。

金の信心もあれば、名誉や地位の信心もあります。

共産主義者は、共産主義を信じている人たちです。

神や仏を信ずるだけが信心ではありません。何かを信じておれば、それはその人の

信心です。 何を命として信ずるかは人それぞれですが、すべての人は何かの信心

を持って生きているのです。 生きるということは、イコール信ずることだということです。

ところが、私たちは、信じていたものに裏切られたときに、苦しみ、悩みます。

(次回に続く)

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By ゆうと | 7月 9, 2009 - 11:03 am - Posted in どんなに信じていても…, 信心とは

親鸞会発行の「こんなことが知りたい」の中に、信心について高森顕徹先生が答えられているところがあります。


私は高校生ですが、なぜ宗教が必要なのか分かりません。
信心なんて古くさいものはいらないように思います。必要な理由を教えて下さい。


信心はなぜ必要なのかと仰有いますが、私達は何かを信じなければ生きてはゆけないからです。
信心とは、何かを心で信ずることです。
信ずるということは言葉をかえればたよりにする、あて力にするということです。

私達は何かをたよりにし、あて力にしなければ生きてはゆけません。
即ち、何かを信じなければ生きておれないのです。

妻は夫を信じ、夫は妻を信じ、親は子供をたよりにし、子供は親をあて力にして生きております。
その他、自分の身体や生命、財産や金銭、家や名誉や社会的地位等、何かをあて力にして人間は生きております。

だから生きるということは信ずることなのです。

神や仏を信ずることだけが信心ではありません。

昔から鰯の頭も信心からと言われますが、つまらぬものでも信じていればその人の信心です。
だから総ての人は何らかの信心をもっているのです。

ところが私達は、ただ生きているのではありません。
幸福を求めて生きている人ばかりです。
そして一切の苦しみ悩みを厭うております。

苦しみ悩みはどこから起きるのか考えてみますと、信じていたものに裏切られた時に起きて来るのです。

病人の苦悩は健康に裏切られたからであり、家庭の悲劇は夫を信じ切っていた妻が、夫に裏切られたからです。

子供に裏切られた親、親に裏切られた子供。

家の子供にかぎってと深く信じていればいる程、裏切られた時の親の苦悩や悲しみ怒りは大きいのです。

これで分かるように我々は何かを信じなければ生きてはゆけませんが、
やがては我々を裏切ることのあるものを信じて生きるということは馬鹿げたことです。

では、この世で生命をかけて信じても後悔のない、謂、絶対に裏切ることのないものはあるでしょうか。

結論を急ぎましょう。何もないのです。

この世の一切は死ぬ時にはなんのあて力にもなりません。
この肉体さえ焼いてゆかねばなりませんから。
今死ぬという時でも変わらぬもの、それは三世諸仏をして成仏せしめた本師本仏の阿弥陀仏あるのみです。
釈尊の先生である阿弥陀仏の本願によらねば、絶対に救われない、ということが改めて知らされます。

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By ゆうと | 7月 1, 2009 - 10:45 am - Posted in 信心とは, 正しい信心を明らかにされた親鸞聖人

ブッダが誕生なされた時代はどうだったか分かりませんが、とにもかくにも現代人は多忙です。

現実から逃避して、行雲流水のようにひょうひょうとした生き方を望みたい気持ちもわかります。

しかし、混迷の時代に生き抜かれた親鸞聖人の生きざまは、波乱万丈そのものでありました。

たくましき親鸞、と驚く人も多いのですが、聖人は、それも、阿弥陀仏からの賜りもののおかげだと言われています。

ご和讃に、
「金剛心なりければ」
と言われたのは、
「真心徹到すれば、金剛心を頂くのだ」
ということです。

金剛石といえば、ダイヤモンドのこと。
軟らかい餅は、踏めばつぶれて形が崩れますが、世界一硬い鉱石であるダイヤモンドは、ちょっとやそっとのことでは壊れません。

「金剛心」とは、そんなダイヤモンドのごとく絶対に壊れない信心のことで、次のようにも教えられています。

「如何なる人来りて云い妨ぐとも、すこしも変らざる心を金剛心という」
(後世物語聞書)

どんな偉い人が、どれだけ大勢やってきて、「おまえの信心は間違いだ」と一斉に非難したとしても、決して微動だにもしない心のことです。

「弥陀の本願まことだった」
とハッキリした鮮明不動の金剛心を弥陀より獲得すれば、どんなにあざけり笑われ攻撃されようとも弥陀の誓願を伝え切る信念と前進を、何ものも妨げることはできないのです。

「この真実どうか分かってもらいたい」
と、独り突き進まれた聖人の、激しさ、厳しさ、たくましさの秘密は、弥陀より賜った金剛不壊の大信心にあったのです。

親鸞聖人が我々に伝えようとしているのも、この金剛不壊の大信心です。

その意思を受け継いで、親鸞会では法話を通して真実の信心一つを皆さんにお伝えしています。

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By ゆうと | 5月 24, 2009 - 5:43 pm - Posted in 「死ぬまで求道」, 信心とは

「真心徹到」とは、真実の信心には「徹到」があると言われたことです。

「徹到」とは、到るべきところへ行き着いた、完成、卒業ということです。
だから「真心徹到」とは、真実の信心には完成、卒業があるということです。

この聖人の断言に、驚く人も多いでしょう。

なぜなら、「信心には、死ぬまで完成など目あろうはずがない」
これがあらゆる宗教はもちろん、世の常識となっているからです。

なるほど、学問や芸術、科学、医学、剣道、柔道、書道、茶道、華道・・・

各人が命として信じているものはどこまで究めても、卒業もなければ完成もない道ばかり。

だから「死ぬまで求道」といわれるのはもっともです。

「それがいいんだ、完成したと思ったら進歩がない」

「『死ぬまで求道』こそが素晴らしいのだ」

たいていの人は、そう言うに違いありません。

ですが少し落ち着いて考えてみてください
「『死ぬまで求道』が素晴らしい」なんて、ナンセンスではありませんか。
なぜなら、求めるのは、「求まる」ことを前提としているからです。
死ぬまで「求まらない」と知りながら求めるのは、絶対に当たらないと分かっているのに宝くじを買い続けるようなもの。
どうして“それでいいんだ”と言えるでしょうか。

ゴールのないマラソンは走り倒れの悲劇あるのみです。
同様に「死ぬまで求道」の人生は苦しむだけの一生で終わります。

そんな中で「真心徹到(信心に完成がある)」と言われたのは、今救われたという決勝点がある、

求めていた裏切らぬ幸福になったという時がある、との驚くべき聖人の一大宣言なのです。

私たちは、決して苦しむために生まれてきたのでもなければ、辛い思いをするために生きているのでもありません。

本当の幸福になるために生きているのです。

だから「真心徹到」こそ、万人の願いであり「生きて、何をするか」の答えなのです。

どんなに苦しくとも、この身になるまで生き抜きなさいよ、と親鸞聖人は人生の決勝点を明示なされています。

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By ゆうと | 5月 18, 2009 - 5:34 pm - Posted in 信心とは, 正しい信心

朝晩、拝読している正信偈。
その後に、親鸞聖人の書かれたご和讃を拝読します。
6つのご和讃の中の、3番目は、

真心徹到する人は
金剛心なりければ
三品の懺悔するひとと
ひとしと宗師はのたまえり

です。

最初の「真心」とは、「真実の信心」のことです。
日本人には特定の宗教を信じている人が少なく、「信心」なんて自分とは何の関係もないものと思っている者が多くあります。

しかし仏や神を信じることだけが信心ではありません。

信心とは心で何かを信じ、頼りにすることです。

子供は親を、親は子供を信じ、夫は妻を、妻は夫を頼りにして生きています。
金や財産、才能や能力を支えとしている人もあるでしょう。

私たちは、何かを信じなければ生きてはいけません。

だから生きるとは信じることだともいえます。

明日もあるという命の信心、達者でおれると思っている健康信心、金の信心や、財の信心、権力信心、名誉信心・・・

“何を”命として信じるか、また、“その信じ方”は、一人一人異なります。
だから人生いろいろ、信心もいろいろなのです。

ところが、私たちは信じていたものに裏切られた時、苦しみ悩みます。

病苦であえぐ人は、健康の支えが傾いたといえましょう。
失恋に泣くのは、恋人に裏切られたから。
信じていたものに裏切られた時、人は悲しみ、苦しみます。
では私たちは、裏切らないものを信じて生きているのでしょうか。
死に直面した時、それまで頼りにしてきた一切のものに裏切られ、たった一人で暗黒の後生へと旅立っていくのです。

だから、何を手に入れても、安心も満足もないのです。

ならば、「一体、何をすればよいのか」と、途方に暮れるのも当然でしょう。

「やがて必ず裏切るものを信じているから、死ぬまで苦しみ悩みが絶えないのだ。
本当の幸福になりたければ、絶対に裏切ることのない正しい信心を持ちなさいよ」

その一切のほろびる中に滅びざる、真実の信心の厳存を明示されたのが親鸞聖人です。
その真実信心を略して「真心」と言われています。

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By ゆうと | 4月 10, 2009 - 4:14 pm - Posted in 信心とは

一般に信心といわれているものと、浄土真宗で信心と言われるものと、大きな違いがあります。

初めて知ったとき、非常に興味深く、今まで聞いた信心のことについての話をブログにまとめてみようと思い立ちました。
信心と聞くと、何か特定の宗教を信じている人に限った言葉のように思うのですが、それに限りません。

「信心」ときくと、たいてい宗教用語のように思います。

私も、実家の宗派は仏教ですが、自分がこれと言って特別何かを信じていたわけではなかったので、宗派を聞かれれば、
「別に、何も信心してないよ」
と答えていました。

でも、信心とはなにも宗教に限ったことではないのです。

信心とは、書いて字のごとく「心で何かを信じる」ということ。
信じる対象は神や仏だけではなく、日常、身の周りのものすべてに及びます。

例えば、お金。
「お金があるから大丈夫」「お金があれば安心だ」とお金を信じて生きています。

また、いつまでも元気でいられる、と健康を信じています。

不景気の世の中、資格を持っていれば、能力の証明になるから、安定した職に就けると資格を信じています。

レストランで食事を口に運べるのも、その味や安全性を信じているから。
食中毒を起こした、と聞けば、易々と出された料理を口には入れられないでしょう。

地位や名誉を求めるのも、それらが自分に満足感を与えてくれるものと信じているからです。

このように、人間は常に何かを信じて生活しているのです。
裏を返せば、何も信じていない人間はいません。

「何も信じていない」と言い張る人がいたとしても、その人はその信念を信じて生きているのです。

イワシの頭も信心から。
どんなものでも信じていれば尊く思えてくるという意味ですが、信じる対象は人によって様々でしょう。

しかし、何を信ずるかは人それぞれ異なっても、何かを信じていれば、それは信心を持っていることになります。

特定の宗教を信じることだけが信心ではない、ということがわかると思います。

では、この切っても切り離せない信心と、私たち人間の幸せとの関係を次回から徐々に紐解いていきたいと思います。

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