By ゆうと | 3月 5, 2010 - 9:12 am - Posted in 信心とは, 正しい信心

以上でお分かりのように、阿弥陀如来から南無阿弥陀仏の名号を一念で

賜わり、苦悩の根元である無明の闇を破って頂き、往生一定の心になった

のを、「信心」 と、浄土真宗ではいわれるのです。

「無碍光如来の名号と かの光明智相とは

無明長夜の闇を破し 衆生の志願を満てたまう」 (親鸞聖人)

無礙光如来とは阿弥陀如来のこと。阿弥陀如来のつくられた名号には

苦悩の根元である無明の闇をやぶり、衆生の上に、阿弥陀如来の志願

(私たちをこの世から未来永遠の幸福にしてやりたい)を満足させる働き

がある、という意味です。

そして、

「この仏心(名号)を凡夫の方に授けましますとき、信心とは名づくるものなり」

(蓮如上人)

と蓮如上人も仰言るとおり、破闇満願の力のある名号と私(凡夫)が一体に

なったこと(これを仏凡一体という)を、信心、あるいは、信心決定、

信心獲得、といわれるのです。

ですから、浄土真宗の“信心” とは、キリスト教やイスラム教、日本神道で

いうような“信心”とは、まったく異なるのです。

浄土真宗親鸞会では、親鸞聖人が明らかにされた“正しい信心”“真実の信心”

一つを開顕するために存在します。“他力の信心”とは、いかなるものか、

聞きたい、という方は、親鸞会で聴聞してください。

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By ゆうと | 12月 2, 2009 - 3:19 pm - Posted in 正しい信心

阿弥陀仏の五劫思惟の願と、兆載永劫のご修行によって、完成されたのが南無阿弥陀仏の

六字の名号です。 阿弥陀仏の全生命をこの南無阿弥陀仏の名号におさめられ、私たちに

与えて、この世から未来永遠の幸福に救おうとなされています。

この南無阿弥陀仏の名号を、私たちが一念で受取ったことを信心決定、略して信心といいます。

他力の信心とは、このことを言うのです。私たちの心で何かを信ずる、という自力の信心

とはまったく異なります。

この南無阿弥陀仏の名号について、御文章には、次のように書かれています。

「それ、南無阿弥陀仏と申す文字は、その数わずかに六字なれば、さのみ功能のあるべき

とも覚えざるに、この六字の名号の中には無上甚深の功徳利益の広大なること、さらにその

きわまりなきものなり」 (御文章)

名号には、最高無上の、甚だ深い、私たちを絶対の幸福にする力があるのだよ、と仰言っています。

だから、十方の諸仏も、阿弥陀仏の作られた名号を絶賛されています。

「十方恒沙の諸仏如来、皆共に無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃嘆したまう」(大無量寿経)

では、阿弥陀仏のつくられた名号には、どんな力があるのか。

一言で言うと、破闇満願のはたらきです。

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By ゆうと | 9月 26, 2009 - 11:23 am - Posted in 信心とは, 正しい信心

私たちは、みんな何かを信じて生きている、いわゆる信心を持っています。

そして、信じていたものに裏切られたときに、苦しみ、悩みます。

しかも、深く信じていればいるほど、それらに裏切られたときの悲しみや

怒りは大きくなります。

私たちは、けっして、苦しんだり、悲しんだりするために、生まれてきたのでは

ありません。生きているのでもありません。幸福を求めて生きています。

では、裏切らないものを信じて、私たちは生きているでしょうか。

たとえ、70年、80年、信じられるものがあったとしても、最後、私たちは

死なねばなりません。 いよいよ死んでいくときには、信じていた家族も、

健康も、財産も、すべて我が身から離れて、この肉体さえも焼いてゆかねば

なりません。

裏切るものばかりを信じて生きているから、苦しみ、悩みがたえないのだ、

本当の幸福になりたければ、絶対に裏切ることのない、正しい信心を持ちな

さいよ、と親鸞聖人が教えられているのが、正信偈であります。

正信偈の「正」という字は、一に止まる、と書きます。正しいものは一つしかない、

ということです。 では、その唯一つしかない、正しい信心とはなんなのか、

次回からお話したいと思います。

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親鸞聖人が、その生涯をかけて書き残された大著が、教行信証六巻です。

ですから、教行信証には、親鸞聖人90年の教えのすべてがおさまっています。

その教行信証を、圧縮されたのが「正信偈」であります。

「帰命無量寿如来 南無不可思議光」ではじまる、一行七文字、120行で、

全部で840字です。

漢字ばかりで書かれていますので、お経だと思っている人がありますが、

正信偈はお経ではありません。お経はお釈迦様のお言葉を書き残したもの

ですが、正信偈は親鸞聖人の書かれたものですから、お経とは違います。

「偈」とは、歌、ということですから、正信偈は、正しい信心の歌、ということです。

「信心」と聞くと、自分とは何の関係もないことだと思われる人もあるかもしれませんが、

私たちは何かを信じなければ、一日たりとも生きてはおれません。

たとえば、明日も生きておれる、と生命を信じて生きています。

いつまでもたっしゃでおれる、と、健康を信じて生きています。

夫は妻を、妻は夫を信じ、親は子供を、子供は親を信じて生きています。

金の信心もあれば、名誉や地位の信心もあります。

共産主義者は、共産主義を信じている人たちです。

神や仏を信ずるだけが信心ではありません。何かを信じておれば、それはその人の

信心です。 何を命として信ずるかは人それぞれですが、すべての人は何かの信心

を持って生きているのです。 生きるということは、イコール信ずることだということです。

ところが、私たちは、信じていたものに裏切られたときに、苦しみ、悩みます。

(次回に続く)

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By ゆうと | 6月 13, 2009 - 9:50 am - Posted in 正しい信心

親鸞聖人による書物に「正信偈」というものがあります。

一体何が書かれているのか、それはこの書物の名に表されています。

“偈”とは「うた」ということですから、正信偈は、「正しい信心の歌」ということです。

親鸞聖人は私たちに「正しい信心」「真実の信心」を教えられ、はやく正しい信心を獲得し、未来永遠の幸福になってもらいたい、と念じておられるのです。

しかし、漢字ばかりで書かれているためか、「正信偈」をお経だと思っている人がありますが、それは誤りです。
「正信偈」はお経ではありません。

「お経」とは、お釈迦様のご説法を弟子が書き残したもので、どのお経も「仏説○○経」とあります。

浄土真宗のお経といえば、大無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の3つがありますが、それぞれ、仏説無量寿経、仏説観無量寿経、仏説阿弥陀経と正式には言われます。

「仏説」とは「仏さまが説かれた」の意で、「仏さま」とはお釈迦さまのこと。
それに対して「正信偈」は、親鸞聖人の書かれたものです。

「なんとか伝えたい。知ってもらいたいことがある」

と、親鸞聖人が泣く泣く筆を執られ、一字一涙で書かれた「正信偈」には、聖人90年の教えのすべてがおさまっているのです。

「正信偈」の「正」という字は、「一に止まる」と書きます。
正しいものは一つしかないということ。
二つも三つもあるものではありません。

そのただ一つの正しい信心を、親鸞聖人が明らかになされているのが「正信偈」です。

ですから親鸞聖人は
「なんでもかんでも、その人がいいと思ったものを信じて生きればいい」
などとは、決しておっしゃっていません。

「正しい」信心があるということは、そうでない信心がある、ということ。
すなわち、迷信、邪信、偽信といわれるものです。

それら間違っている信心は、必ず裏切られて苦しまねばなりません。だから、間違った信心を捨てよ、と教行信証に徹底的に書かれています。

皆さん、一日も早く「正しい信心」「真実の信心」を獲得して、死の巌頭にも崩れない「絶対の幸福」に救い摂られてくれよ、と念じ、叫び続けている方が親鸞聖人なのです。

その「正しい信心」一つを明示されたのが「正信偈」です。

親鸞会では、毎月の法話会で、正信偈のお言葉の意味を解説しています。

正信偈の冒頭の

「帰命無量寿如来 南無不可思議光」

の二行は、聖人ご自身が、その「正信心」を獲得しての生々しい感動、喜びの体験を告白しているお言葉なのです。

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By ゆうと | 5月 18, 2009 - 5:34 pm - Posted in 信心とは, 正しい信心

朝晩、拝読している正信偈。
その後に、親鸞聖人の書かれたご和讃を拝読します。
6つのご和讃の中の、3番目は、

真心徹到する人は
金剛心なりければ
三品の懺悔するひとと
ひとしと宗師はのたまえり

です。

最初の「真心」とは、「真実の信心」のことです。
日本人には特定の宗教を信じている人が少なく、「信心」なんて自分とは何の関係もないものと思っている者が多くあります。

しかし仏や神を信じることだけが信心ではありません。

信心とは心で何かを信じ、頼りにすることです。

子供は親を、親は子供を信じ、夫は妻を、妻は夫を頼りにして生きています。
金や財産、才能や能力を支えとしている人もあるでしょう。

私たちは、何かを信じなければ生きてはいけません。

だから生きるとは信じることだともいえます。

明日もあるという命の信心、達者でおれると思っている健康信心、金の信心や、財の信心、権力信心、名誉信心・・・

“何を”命として信じるか、また、“その信じ方”は、一人一人異なります。
だから人生いろいろ、信心もいろいろなのです。

ところが、私たちは信じていたものに裏切られた時、苦しみ悩みます。

病苦であえぐ人は、健康の支えが傾いたといえましょう。
失恋に泣くのは、恋人に裏切られたから。
信じていたものに裏切られた時、人は悲しみ、苦しみます。
では私たちは、裏切らないものを信じて生きているのでしょうか。
死に直面した時、それまで頼りにしてきた一切のものに裏切られ、たった一人で暗黒の後生へと旅立っていくのです。

だから、何を手に入れても、安心も満足もないのです。

ならば、「一体、何をすればよいのか」と、途方に暮れるのも当然でしょう。

「やがて必ず裏切るものを信じているから、死ぬまで苦しみ悩みが絶えないのだ。
本当の幸福になりたければ、絶対に裏切ることのない正しい信心を持ちなさいよ」

その一切のほろびる中に滅びざる、真実の信心の厳存を明示されたのが親鸞聖人です。
その真実信心を略して「真心」と言われています。

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私たち人間はこの世を生きるにあたって様々なものを信じて生きています。
ということは、必ず何かの信心を持って生きています。

ところが、私たちは、その信じているものに裏切られたときに、苦しんだり、悩んだりします。

健康だと思っていた身体が病気を患い、苦しむのは、信じていた健康に裏切られたから。
苦労して貯めたお金が、詐欺にあって通帳からいつの間にか引き出されて返ってこない、という目にあった人は、お金に裏切られたと言えるでしょう。
好きな恋人にふられて、大きなショックを受けるのは、自分を愛してくれていると信じていた相手に裏切られたからです。
美味しそうだと思って注文した料理がそれほどではないと分かるとがっかりします。
美味しいと信じていた料理に裏切られた後の悲しさです。

このように、信じているものに、裏切られたときに、私たちは苦しみを感じ、悲しみに暮れます。
しかも、強く、深く信じているほど、裏切られた悲しみや怒りは大きくなります。

では、裏切らないものを私たちは信じて生きているのでしょうか?
もし、やがて必ず裏切るものばかりを信じて生きているとすれば、これほどの悲劇はありません。

ならば、絶対に裏切らないものはどこかにないのでしょうか。

いつの時代にでもお金を貯め込むことが好きな大富豪はいますが、
どれだけ豪華な金銀財宝を集めたとしても、死後の世界にまでは持っていけません。
全部、この世に置いていかねばなりません。

自分の能力はどうでしょうか。
どんなに身体を鍛え、才能を高めたとしても、死んでしまえば肉体は朽ちるばかりです。

日本で最も成功したと言われる、あの豊臣秀吉も、臨終には、

「露と落ち、露と消えにし、わが身かな。難波のことも夢のまた夢」

と寂しくこの世を去っています。

お金、財産、地位、名誉をほしいままにした秀吉も、やがてすべてに裏切られ、一人ぼっちで死出の旅路を行ったのです。
秀吉に限らず、すべての人は死に瀕するときには全てのものに裏切られます。
しかし、これでは、人間は苦しむために生まれてきたことになってしまいます。

そんなはずはありませんので、親鸞聖人は、「人間に生まれて良かった」といえる本当の幸福、人生の目的をハッキリ教えておられます。
それは、阿弥陀仏の本願に救い摂られ、絶対の幸福、無碍の一道に出ることである、と親鸞聖人は教えておられるのです。

その喜び、満足は死に際しても決して崩れることも、色あせることもありません。

「やがて必ず裏切るものを信じているから苦しみ悩みが絶えないのだ。本当の幸福になりたければ、絶対に裏切ることのない正しい信心を持ちなさい」

正しい信心とは何か、それを明らかにされたのが親鸞聖人のお書き下された「正信偈」です。

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