親鸞聖人が、「信心」「信」「信ずる」と、書かれているところは、

世間一般でいわれる「信心」や「信じる」とは、まったく意味が

ことなりますので、注意に注意が必要です。

よく「あなたのことを信じています」 「我が校にはイジメはなかった

と信じています」 などと言っているのを聞きます。

ふつう、「疑っていない」=「信じる」 と思っていますが、

疑いが無ければ、信ずる必要もないのです。疑いがあるから、

それを押さえつけるために、信じよう、とするのです。

「ひょっとしたらイジメはあったかもしれない」という疑いがある

から、「信じています」などという言葉が出るのです。

世間の宗教でいう「信じる」「信心」も、みなこれと同じ類で、

疑いがあるから、信じよう、信じよう、とするのです。

親鸞聖人のいわれる「信心」「信ずる」は、そのようなものとは

全くことなり、疑いのつゆちりほども無くなったことを仰言るのです。

これを仏教では、深信とか、真知、明知、と言われます。

親鸞会で、正しい親鸞聖人の教えを聞かせて頂きましょう。

親鸞会の行事案内は、公式サイトをご覧ください。

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By ゆうと | 12月 18, 2009 - 11:21 am - Posted in 信心に関してのいろいろ

本師本仏の阿弥陀如来が、五兆の願行で完成されたのが、南無阿弥陀仏の六字の御名号でした。
その、名号を、私が阿弥陀仏から受取ったのを信心、あるいは信心決定(しんじんけつじょう)、
信心獲得(しんじんぎゃくとく)といいます。そして、阿弥陀仏から賜るときを、信の一念といいます。

教行信証に、「一念とは、これ信楽開発の時尅の極促をあらわす」 と書かれている通りです。
信楽開発(しんぎょうかいほつ)とは、信心決定、信心獲得と同じ意味です。時尅の極促とは、
これ以上短い時間はない、何億分、何兆分の一秒よりも短い時をいいます。

阿弥陀仏の救いは、平生の一念で完成されます。
聖人一流の章にも、「その位を一念発起、入正定之聚」 と、蓮如上人も書かれています。
一念で発起する信心が、正しい信心、他力の信心です。
死んだらお助け、といった寝とぼけたものでもないし、いつとはなしに救われる、といった馬鹿げた
ものでもないのです。

「たのむ一念のところ肝要なり」 とも蓮如上人は仰言っています。
平生に、弥陀より、南無阿弥陀仏の大功徳を頂き、絶対の幸福になるか、どうか。
これが、要の中の要、である、ということです。

では、名号には、どのような力、働きがあるのでしょうか。

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親鸞聖人が、その生涯をかけて書き残された大著が、教行信証六巻です。

ですから、教行信証には、親鸞聖人90年の教えのすべてがおさまっています。

その教行信証を、圧縮されたのが「正信偈」であります。

「帰命無量寿如来 南無不可思議光」ではじまる、一行七文字、120行で、

全部で840字です。

漢字ばかりで書かれていますので、お経だと思っている人がありますが、

正信偈はお経ではありません。お経はお釈迦様のお言葉を書き残したもの

ですが、正信偈は親鸞聖人の書かれたものですから、お経とは違います。

「偈」とは、歌、ということですから、正信偈は、正しい信心の歌、ということです。

「信心」と聞くと、自分とは何の関係もないことだと思われる人もあるかもしれませんが、

私たちは何かを信じなければ、一日たりとも生きてはおれません。

たとえば、明日も生きておれる、と生命を信じて生きています。

いつまでもたっしゃでおれる、と、健康を信じて生きています。

夫は妻を、妻は夫を信じ、親は子供を、子供は親を信じて生きています。

金の信心もあれば、名誉や地位の信心もあります。

共産主義者は、共産主義を信じている人たちです。

神や仏を信ずるだけが信心ではありません。何かを信じておれば、それはその人の

信心です。 何を命として信ずるかは人それぞれですが、すべての人は何かの信心

を持って生きているのです。 生きるということは、イコール信ずることだということです。

ところが、私たちは、信じていたものに裏切られたときに、苦しみ、悩みます。

(次回に続く)

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By ゆうと | 6月 5, 2009 - 6:00 pm - Posted in 「死ぬまで求道」, 信心に関してのいろいろ

親鸞会で仏法を聞き求める人から聞いた体験談です。

小学校に入る前から始めている空手。

道場の先生は厳しく、練習は過酷ですが、徐々に実力がつき、道場の代表として市で優勝するまでにいたります。

手にした金メダルに、今までの苦労は吹き飛びました。

しかし先生は、何気なく言うのです。
「よし、次は県一位だな」
喜びもつかの間、直ちに、厳しい練習が再開されました。

夏は暑く冬は寒い体育館での練習。

遊びの誘いも断って通い続け、ついに県一位となります。

こんなにうれしいことはないと、ほっと一息ついた途端・・・
「じゃあ次は地方一だな。頑張れ!」
県代表として強化練習に参加することになります。

毎日十時間に及ぶ過酷なスケジュールにも耐えて、臨んだ地区大会。

そこでとうとう優勝し、たどり着くところまでたどり着いたと思いました。

それでも先生は、
「次は全国だな」
このころから、自分の道に疑問を持つようになります。

「頑張れ、頑張れ」と言われるが、どこまでいけば安心できるのだろうか。
重荷を背負った道が、宇宙の果てまで続いているのではないだろうか。

「死ぬまで求道」の絶望にぼんやりと気づき、次第に力が入らなくなったとその人は言います。

「自分はなぜ、空手をやっているんだろう」

不安を抱え、臨んだ全国大会は予選敗退。

落ち込むところへ先生がかける言葉は
「来年は頑張れ」

ドラマなら、悔しさをバネに立ち上がる場面でしょう。

しかし、その人には、その言葉がうっとうしく感じられたのです。

それでも練習を続けていた高校二年の時、体の不調を感じ始めます。

病院に行くと
「身体に負担がかかるので空手はもう二度とやらないほうがいい」
とのドクターストップ。

聞いた途端頭が真っ白になります。
「今まで耐え抜いてきた十年間は一体何だったんだ?」

「死ぬまで求道」に完成はありません。

親鸞聖人のみ教えに出遇い、徹到のある信心を知ってこそ、「人間に生まれて良かった」という真の満足が獲られます。
完成のある道を知り得なかったら、いったいどうなっていたことでしょうか。

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信心について、もっと学んでみましょう。
経典に説かれている話を紹介します。

とある金持ちの男が三人の妻を囲って贅沢に暮らしていました。
第一夫人を最も愛しており、何事にも気遣って機嫌を損なわせることはありません。
第二夫人は他人と争ってまで手に入れた夫人で、いつも自分の傍に置いています。
第三夫人は寂しいときや困ったときに逢っていました。
ところが、やがて男は身体を壊し病床に伏すようになります。
死を恐れる彼は第一夫人に死出の旅路に同道するよう頼みます。
ところが「他のことならともかく、死に同道することはできません」
と、すげない返事。
次に、第二夫人に同じことを頼みます。しかし、
「貴方が私を求められたのは、貴方の勝手です。私から頼んだのではありません」
と、こちらも冷たい返事。
最後に恐る恐る第三夫人にすがってみると、
「村外れまでなら同道させていただきますが、そのあとは堪忍してください」
と突き放されてしまいます。

この話は実は喩え話となっています。
男に喩えられているのは、この世の全ての人間です。
第一夫人は肉体、第二夫人は金銀財宝、
第三夫人は父母妻子兄弟朋友などを喩えられています。

それまでにどんなに大切にして愛していたものでも、
死の際にはそれら一切のものから見放され、
どれひとつとして力になるものがなかったと驚き悲しむ・・・
これが人間の実相です。

たとえ長年信じているものがあったとしても、
私たちはいずれ死ぬことになります。

そのときには信じていた家族や、お金や財産、名誉にも裏切られ
最も大事なこの肉体さえも焼いていかなければならないのです。

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