親鸞会で仏法を聞き求める人から聞いた体験談です。
小学校に入る前から始めている空手。
道場の先生は厳しく、練習は過酷ですが、徐々に実力がつき、道場の代表として市で優勝するまでにいたります。
手にした金メダルに、今までの苦労は吹き飛びました。
しかし先生は、何気なく言うのです。
「よし、次は県一位だな」
喜びもつかの間、直ちに、厳しい練習が再開されました。
夏は暑く冬は寒い体育館での練習。
遊びの誘いも断って通い続け、ついに県一位となります。
こんなにうれしいことはないと、ほっと一息ついた途端・・・
「じゃあ次は地方一だな。頑張れ!」
県代表として強化練習に参加することになります。
毎日十時間に及ぶ過酷なスケジュールにも耐えて、臨んだ地区大会。
そこでとうとう優勝し、たどり着くところまでたどり着いたと思いました。
それでも先生は、
「次は全国だな」
このころから、自分の道に疑問を持つようになります。
「頑張れ、頑張れ」と言われるが、どこまでいけば安心できるのだろうか。
重荷を背負った道が、宇宙の果てまで続いているのではないだろうか。
「死ぬまで求道」の絶望にぼんやりと気づき、次第に力が入らなくなったとその人は言います。
「自分はなぜ、空手をやっているんだろう」
不安を抱え、臨んだ全国大会は予選敗退。
落ち込むところへ先生がかける言葉は
「来年は頑張れ」
ドラマなら、悔しさをバネに立ち上がる場面でしょう。
しかし、その人には、その言葉がうっとうしく感じられたのです。
それでも練習を続けていた高校二年の時、体の不調を感じ始めます。
病院に行くと
「身体に負担がかかるので空手はもう二度とやらないほうがいい」
とのドクターストップ。
聞いた途端頭が真っ白になります。
「今まで耐え抜いてきた十年間は一体何だったんだ?」
「死ぬまで求道」に完成はありません。
親鸞聖人のみ教えに出遇い、徹到のある信心を知ってこそ、「人間に生まれて良かった」という真の満足が獲られます。
完成のある道を知り得なかったら、いったいどうなっていたことでしょうか。