By ゆうと | 6月 5, 2009 - 6:00 pm - Posted in 「死ぬまで求道」, 信心に関してのいろいろ

親鸞会で仏法を聞き求める人から聞いた体験談です。

小学校に入る前から始めている空手。

道場の先生は厳しく、練習は過酷ですが、徐々に実力がつき、道場の代表として市で優勝するまでにいたります。

手にした金メダルに、今までの苦労は吹き飛びました。

しかし先生は、何気なく言うのです。
「よし、次は県一位だな」
喜びもつかの間、直ちに、厳しい練習が再開されました。

夏は暑く冬は寒い体育館での練習。

遊びの誘いも断って通い続け、ついに県一位となります。

こんなにうれしいことはないと、ほっと一息ついた途端・・・
「じゃあ次は地方一だな。頑張れ!」
県代表として強化練習に参加することになります。

毎日十時間に及ぶ過酷なスケジュールにも耐えて、臨んだ地区大会。

そこでとうとう優勝し、たどり着くところまでたどり着いたと思いました。

それでも先生は、
「次は全国だな」
このころから、自分の道に疑問を持つようになります。

「頑張れ、頑張れ」と言われるが、どこまでいけば安心できるのだろうか。
重荷を背負った道が、宇宙の果てまで続いているのではないだろうか。

「死ぬまで求道」の絶望にぼんやりと気づき、次第に力が入らなくなったとその人は言います。

「自分はなぜ、空手をやっているんだろう」

不安を抱え、臨んだ全国大会は予選敗退。

落ち込むところへ先生がかける言葉は
「来年は頑張れ」

ドラマなら、悔しさをバネに立ち上がる場面でしょう。

しかし、その人には、その言葉がうっとうしく感じられたのです。

それでも練習を続けていた高校二年の時、体の不調を感じ始めます。

病院に行くと
「身体に負担がかかるので空手はもう二度とやらないほうがいい」
とのドクターストップ。

聞いた途端頭が真っ白になります。
「今まで耐え抜いてきた十年間は一体何だったんだ?」

「死ぬまで求道」に完成はありません。

親鸞聖人のみ教えに出遇い、徹到のある信心を知ってこそ、「人間に生まれて良かった」という真の満足が獲られます。
完成のある道を知り得なかったら、いったいどうなっていたことでしょうか。

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By ゆうと | 5月 24, 2009 - 5:43 pm - Posted in 「死ぬまで求道」, 信心とは

「真心徹到」とは、真実の信心には「徹到」があると言われたことです。

「徹到」とは、到るべきところへ行き着いた、完成、卒業ということです。
だから「真心徹到」とは、真実の信心には完成、卒業があるということです。

この聖人の断言に、驚く人も多いでしょう。

なぜなら、「信心には、死ぬまで完成など目あろうはずがない」
これがあらゆる宗教はもちろん、世の常識となっているからです。

なるほど、学問や芸術、科学、医学、剣道、柔道、書道、茶道、華道・・・

各人が命として信じているものはどこまで究めても、卒業もなければ完成もない道ばかり。

だから「死ぬまで求道」といわれるのはもっともです。

「それがいいんだ、完成したと思ったら進歩がない」

「『死ぬまで求道』こそが素晴らしいのだ」

たいていの人は、そう言うに違いありません。

ですが少し落ち着いて考えてみてください
「『死ぬまで求道』が素晴らしい」なんて、ナンセンスではありませんか。
なぜなら、求めるのは、「求まる」ことを前提としているからです。
死ぬまで「求まらない」と知りながら求めるのは、絶対に当たらないと分かっているのに宝くじを買い続けるようなもの。
どうして“それでいいんだ”と言えるでしょうか。

ゴールのないマラソンは走り倒れの悲劇あるのみです。
同様に「死ぬまで求道」の人生は苦しむだけの一生で終わります。

そんな中で「真心徹到(信心に完成がある)」と言われたのは、今救われたという決勝点がある、

求めていた裏切らぬ幸福になったという時がある、との驚くべき聖人の一大宣言なのです。

私たちは、決して苦しむために生まれてきたのでもなければ、辛い思いをするために生きているのでもありません。

本当の幸福になるために生きているのです。

だから「真心徹到」こそ、万人の願いであり「生きて、何をするか」の答えなのです。

どんなに苦しくとも、この身になるまで生き抜きなさいよ、と親鸞聖人は人生の決勝点を明示なされています。

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