私たち人間はこの世を生きるにあたって様々なものを信じて生きています。
ということは、必ず何かの信心を持って生きています。

ところが、私たちは、その信じているものに裏切られたときに、苦しんだり、悩んだりします。

健康だと思っていた身体が病気を患い、苦しむのは、信じていた健康に裏切られたから。
苦労して貯めたお金が、詐欺にあって通帳からいつの間にか引き出されて返ってこない、という目にあった人は、お金に裏切られたと言えるでしょう。
好きな恋人にふられて、大きなショックを受けるのは、自分を愛してくれていると信じていた相手に裏切られたからです。
美味しそうだと思って注文した料理がそれほどではないと分かるとがっかりします。
美味しいと信じていた料理に裏切られた後の悲しさです。

このように、信じているものに、裏切られたときに、私たちは苦しみを感じ、悲しみに暮れます。
しかも、強く、深く信じているほど、裏切られた悲しみや怒りは大きくなります。

では、裏切らないものを私たちは信じて生きているのでしょうか?
もし、やがて必ず裏切るものばかりを信じて生きているとすれば、これほどの悲劇はありません。

ならば、絶対に裏切らないものはどこかにないのでしょうか。

いつの時代にでもお金を貯め込むことが好きな大富豪はいますが、
どれだけ豪華な金銀財宝を集めたとしても、死後の世界にまでは持っていけません。
全部、この世に置いていかねばなりません。

自分の能力はどうでしょうか。
どんなに身体を鍛え、才能を高めたとしても、死んでしまえば肉体は朽ちるばかりです。

日本で最も成功したと言われる、あの豊臣秀吉も、臨終には、

「露と落ち、露と消えにし、わが身かな。難波のことも夢のまた夢」

と寂しくこの世を去っています。

お金、財産、地位、名誉をほしいままにした秀吉も、やがてすべてに裏切られ、一人ぼっちで死出の旅路を行ったのです。
秀吉に限らず、すべての人は死に瀕するときには全てのものに裏切られます。
しかし、これでは、人間は苦しむために生まれてきたことになってしまいます。

そんなはずはありませんので、親鸞聖人は、「人間に生まれて良かった」といえる本当の幸福、人生の目的をハッキリ教えておられます。
それは、阿弥陀仏の本願に救い摂られ、絶対の幸福、無碍の一道に出ることである、と親鸞聖人は教えておられるのです。

その喜び、満足は死に際しても決して崩れることも、色あせることもありません。

「やがて必ず裏切るものを信じているから苦しみ悩みが絶えないのだ。本当の幸福になりたければ、絶対に裏切ることのない正しい信心を持ちなさい」

正しい信心とは何か、それを明らかにされたのが親鸞聖人のお書き下された「正信偈」です。

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By ゆうと | 4月 10, 2009 - 4:14 pm - Posted in 信心とは

一般に信心といわれているものと、浄土真宗で信心と言われるものと、大きな違いがあります。

初めて知ったとき、非常に興味深く、今まで聞いた信心のことについての話をブログにまとめてみようと思い立ちました。
信心と聞くと、何か特定の宗教を信じている人に限った言葉のように思うのですが、それに限りません。

「信心」ときくと、たいてい宗教用語のように思います。

私も、実家の宗派は仏教ですが、自分がこれと言って特別何かを信じていたわけではなかったので、宗派を聞かれれば、
「別に、何も信心してないよ」
と答えていました。

でも、信心とはなにも宗教に限ったことではないのです。

信心とは、書いて字のごとく「心で何かを信じる」ということ。
信じる対象は神や仏だけではなく、日常、身の周りのものすべてに及びます。

例えば、お金。
「お金があるから大丈夫」「お金があれば安心だ」とお金を信じて生きています。

また、いつまでも元気でいられる、と健康を信じています。

不景気の世の中、資格を持っていれば、能力の証明になるから、安定した職に就けると資格を信じています。

レストランで食事を口に運べるのも、その味や安全性を信じているから。
食中毒を起こした、と聞けば、易々と出された料理を口には入れられないでしょう。

地位や名誉を求めるのも、それらが自分に満足感を与えてくれるものと信じているからです。

このように、人間は常に何かを信じて生活しているのです。
裏を返せば、何も信じていない人間はいません。

「何も信じていない」と言い張る人がいたとしても、その人はその信念を信じて生きているのです。

イワシの頭も信心から。
どんなものでも信じていれば尊く思えてくるという意味ですが、信じる対象は人によって様々でしょう。

しかし、何を信ずるかは人それぞれ異なっても、何かを信じていれば、それは信心を持っていることになります。

特定の宗教を信じることだけが信心ではない、ということがわかると思います。

では、この切っても切り離せない信心と、私たち人間の幸せとの関係を次回から徐々に紐解いていきたいと思います。

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