「真心徹到」とは、真実の信心には「徹到」があると言われたことです。
「徹到」とは、到るべきところへ行き着いた、完成、卒業ということです。
だから「真心徹到」とは、真実の信心には完成、卒業があるということです。
この聖人の断言に、驚く人も多いでしょう。
なぜなら、「信心には、死ぬまで完成など目あろうはずがない」
これがあらゆる宗教はもちろん、世の常識となっているからです。
なるほど、学問や芸術、科学、医学、剣道、柔道、書道、茶道、華道・・・
各人が命として信じているものはどこまで究めても、卒業もなければ完成もない道ばかり。
だから「死ぬまで求道」といわれるのはもっともです。
「それがいいんだ、完成したと思ったら進歩がない」
「『死ぬまで求道』こそが素晴らしいのだ」
たいていの人は、そう言うに違いありません。
ですが少し落ち着いて考えてみてください
「『死ぬまで求道』が素晴らしい」なんて、ナンセンスではありませんか。
なぜなら、求めるのは、「求まる」ことを前提としているからです。
死ぬまで「求まらない」と知りながら求めるのは、絶対に当たらないと分かっているのに宝くじを買い続けるようなもの。
どうして“それでいいんだ”と言えるでしょうか。
ゴールのないマラソンは走り倒れの悲劇あるのみです。
同様に「死ぬまで求道」の人生は苦しむだけの一生で終わります。
そんな中で「真心徹到(信心に完成がある)」と言われたのは、今救われたという決勝点がある、
求めていた裏切らぬ幸福になったという時がある、との驚くべき聖人の一大宣言なのです。
私たちは、決して苦しむために生まれてきたのでもなければ、辛い思いをするために生きているのでもありません。
本当の幸福になるために生きているのです。
だから「真心徹到」こそ、万人の願いであり「生きて、何をするか」の答えなのです。
どんなに苦しくとも、この身になるまで生き抜きなさいよ、と親鸞聖人は人生の決勝点を明示なされています。