By ゆうと | 5月 24, 2009 - 5:43 pm - Posted in 「死ぬまで求道」, 信心とは

「真心徹到」とは、真実の信心には「徹到」があると言われたことです。

「徹到」とは、到るべきところへ行き着いた、完成、卒業ということです。
だから「真心徹到」とは、真実の信心には完成、卒業があるということです。

この聖人の断言に、驚く人も多いでしょう。

なぜなら、「信心には、死ぬまで完成など目あろうはずがない」
これがあらゆる宗教はもちろん、世の常識となっているからです。

なるほど、学問や芸術、科学、医学、剣道、柔道、書道、茶道、華道・・・

各人が命として信じているものはどこまで究めても、卒業もなければ完成もない道ばかり。

だから「死ぬまで求道」といわれるのはもっともです。

「それがいいんだ、完成したと思ったら進歩がない」

「『死ぬまで求道』こそが素晴らしいのだ」

たいていの人は、そう言うに違いありません。

ですが少し落ち着いて考えてみてください
「『死ぬまで求道』が素晴らしい」なんて、ナンセンスではありませんか。
なぜなら、求めるのは、「求まる」ことを前提としているからです。
死ぬまで「求まらない」と知りながら求めるのは、絶対に当たらないと分かっているのに宝くじを買い続けるようなもの。
どうして“それでいいんだ”と言えるでしょうか。

ゴールのないマラソンは走り倒れの悲劇あるのみです。
同様に「死ぬまで求道」の人生は苦しむだけの一生で終わります。

そんな中で「真心徹到(信心に完成がある)」と言われたのは、今救われたという決勝点がある、

求めていた裏切らぬ幸福になったという時がある、との驚くべき聖人の一大宣言なのです。

私たちは、決して苦しむために生まれてきたのでもなければ、辛い思いをするために生きているのでもありません。

本当の幸福になるために生きているのです。

だから「真心徹到」こそ、万人の願いであり「生きて、何をするか」の答えなのです。

どんなに苦しくとも、この身になるまで生き抜きなさいよ、と親鸞聖人は人生の決勝点を明示なされています。

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By ゆうと | 5月 18, 2009 - 5:34 pm - Posted in 信心とは, 正しい信心

朝晩、拝読している正信偈。
その後に、親鸞聖人の書かれたご和讃を拝読します。
6つのご和讃の中の、3番目は、

真心徹到する人は
金剛心なりければ
三品の懺悔するひとと
ひとしと宗師はのたまえり

です。

最初の「真心」とは、「真実の信心」のことです。
日本人には特定の宗教を信じている人が少なく、「信心」なんて自分とは何の関係もないものと思っている者が多くあります。

しかし仏や神を信じることだけが信心ではありません。

信心とは心で何かを信じ、頼りにすることです。

子供は親を、親は子供を信じ、夫は妻を、妻は夫を頼りにして生きています。
金や財産、才能や能力を支えとしている人もあるでしょう。

私たちは、何かを信じなければ生きてはいけません。

だから生きるとは信じることだともいえます。

明日もあるという命の信心、達者でおれると思っている健康信心、金の信心や、財の信心、権力信心、名誉信心・・・

“何を”命として信じるか、また、“その信じ方”は、一人一人異なります。
だから人生いろいろ、信心もいろいろなのです。

ところが、私たちは信じていたものに裏切られた時、苦しみ悩みます。

病苦であえぐ人は、健康の支えが傾いたといえましょう。
失恋に泣くのは、恋人に裏切られたから。
信じていたものに裏切られた時、人は悲しみ、苦しみます。
では私たちは、裏切らないものを信じて生きているのでしょうか。
死に直面した時、それまで頼りにしてきた一切のものに裏切られ、たった一人で暗黒の後生へと旅立っていくのです。

だから、何を手に入れても、安心も満足もないのです。

ならば、「一体、何をすればよいのか」と、途方に暮れるのも当然でしょう。

「やがて必ず裏切るものを信じているから、死ぬまで苦しみ悩みが絶えないのだ。
本当の幸福になりたければ、絶対に裏切ることのない正しい信心を持ちなさいよ」

その一切のほろびる中に滅びざる、真実の信心の厳存を明示されたのが親鸞聖人です。
その真実信心を略して「真心」と言われています。

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信心について、もっと学んでみましょう。
経典に説かれている話を紹介します。

とある金持ちの男が三人の妻を囲って贅沢に暮らしていました。
第一夫人を最も愛しており、何事にも気遣って機嫌を損なわせることはありません。
第二夫人は他人と争ってまで手に入れた夫人で、いつも自分の傍に置いています。
第三夫人は寂しいときや困ったときに逢っていました。
ところが、やがて男は身体を壊し病床に伏すようになります。
死を恐れる彼は第一夫人に死出の旅路に同道するよう頼みます。
ところが「他のことならともかく、死に同道することはできません」
と、すげない返事。
次に、第二夫人に同じことを頼みます。しかし、
「貴方が私を求められたのは、貴方の勝手です。私から頼んだのではありません」
と、こちらも冷たい返事。
最後に恐る恐る第三夫人にすがってみると、
「村外れまでなら同道させていただきますが、そのあとは堪忍してください」
と突き放されてしまいます。

この話は実は喩え話となっています。
男に喩えられているのは、この世の全ての人間です。
第一夫人は肉体、第二夫人は金銀財宝、
第三夫人は父母妻子兄弟朋友などを喩えられています。

それまでにどんなに大切にして愛していたものでも、
死の際にはそれら一切のものから見放され、
どれひとつとして力になるものがなかったと驚き悲しむ・・・
これが人間の実相です。

たとえ長年信じているものがあったとしても、
私たちはいずれ死ぬことになります。

そのときには信じていた家族や、お金や財産、名誉にも裏切られ
最も大事なこの肉体さえも焼いていかなければならないのです。

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