By ゆうと | 6月 24, 2009 - 10:21 am - Posted in 正しい信心を明らかにされた親鸞聖人

「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ」
(教行信証)

「まことだ!本当だ。弥陀の誓いにウソはない。
皆々聞いてもらいたい、この親鸞が生き証人だ。
早く、弥陀の誓願まことを知ってもらいたい」

これは、親鸞聖人ご自身が、29歳の御時、真心徹到された、感激に満ちた告白です。

「摂取不捨の真言」も「超世希有の正法」も、ともに弥陀の誓願のこと。

弥陀の誓願とは、“すべての者を、絶対の幸福にせずにはおかぬ”という、本師本仏の阿弥陀仏のお約束です。

友人に貸している大金が返ってきた時に、“彼の誓約は本当だった”と、それまでの疑いが晴れるように、絶対の幸福になった時、
「弥陀の誓願まことだった」
とハッキリします。

だから「まことなるかなや」とは、弥陀の誓願どおりに、絶対の幸福に救い摂られた聖人の、真情あふれる歓喜の叫びです。

私たちが人間に生まれてきたのは、この親鸞聖人と同じ絶対の幸福に救われるためです。
親鸞会は、親鸞聖人が伝えられたことを、そのまま皆さんにお伝えしている集まりです。

聖人はこの体験を、「信心獲得」とか「信心を獲た」とも言われています。

真実信心は、本師本仏の阿弥陀仏から賜る、「他力の信心」だからです。
「他力」とは阿弥陀仏のお力のこと。

だからこれは、永い間、求め続けてきた真実の信心を弥陀より賜り、人生の目的成就なされた聖人の、驚嘆のお言葉なのです。

ところが、人生の目的に完成があると言われると、
「目的を達成すると、することがなくなってしまうのではないか」
との杞憂を時々聞きます。

しかし、それは全く反対です。

学校を卒業してから、社会での活躍が始まるように、人生の目的達成してからが、本当の活躍の始まりなのです。

親鸞聖人の、あの不惜身命の大活躍も、信心獲得の29歳から始まったではありませんか。

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By ゆうと | 6月 13, 2009 - 9:50 am - Posted in 正しい信心

親鸞聖人による書物に「正信偈」というものがあります。

一体何が書かれているのか、それはこの書物の名に表されています。

“偈”とは「うた」ということですから、正信偈は、「正しい信心の歌」ということです。

親鸞聖人は私たちに「正しい信心」「真実の信心」を教えられ、はやく正しい信心を獲得し、未来永遠の幸福になってもらいたい、と念じておられるのです。

しかし、漢字ばかりで書かれているためか、「正信偈」をお経だと思っている人がありますが、それは誤りです。
「正信偈」はお経ではありません。

「お経」とは、お釈迦様のご説法を弟子が書き残したもので、どのお経も「仏説○○経」とあります。

浄土真宗のお経といえば、大無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の3つがありますが、それぞれ、仏説無量寿経、仏説観無量寿経、仏説阿弥陀経と正式には言われます。

「仏説」とは「仏さまが説かれた」の意で、「仏さま」とはお釈迦さまのこと。
それに対して「正信偈」は、親鸞聖人の書かれたものです。

「なんとか伝えたい。知ってもらいたいことがある」

と、親鸞聖人が泣く泣く筆を執られ、一字一涙で書かれた「正信偈」には、聖人90年の教えのすべてがおさまっているのです。

「正信偈」の「正」という字は、「一に止まる」と書きます。
正しいものは一つしかないということ。
二つも三つもあるものではありません。

そのただ一つの正しい信心を、親鸞聖人が明らかになされているのが「正信偈」です。

ですから親鸞聖人は
「なんでもかんでも、その人がいいと思ったものを信じて生きればいい」
などとは、決しておっしゃっていません。

「正しい」信心があるということは、そうでない信心がある、ということ。
すなわち、迷信、邪信、偽信といわれるものです。

それら間違っている信心は、必ず裏切られて苦しまねばなりません。だから、間違った信心を捨てよ、と教行信証に徹底的に書かれています。

皆さん、一日も早く「正しい信心」「真実の信心」を獲得して、死の巌頭にも崩れない「絶対の幸福」に救い摂られてくれよ、と念じ、叫び続けている方が親鸞聖人なのです。

その「正しい信心」一つを明示されたのが「正信偈」です。

親鸞会では、毎月の法話会で、正信偈のお言葉の意味を解説しています。

正信偈の冒頭の

「帰命無量寿如来 南無不可思議光」

の二行は、聖人ご自身が、その「正信心」を獲得しての生々しい感動、喜びの体験を告白しているお言葉なのです。

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By ゆうと | 6月 5, 2009 - 6:00 pm - Posted in 「死ぬまで求道」, 信心に関してのいろいろ

親鸞会で仏法を聞き求める人から聞いた体験談です。

小学校に入る前から始めている空手。

道場の先生は厳しく、練習は過酷ですが、徐々に実力がつき、道場の代表として市で優勝するまでにいたります。

手にした金メダルに、今までの苦労は吹き飛びました。

しかし先生は、何気なく言うのです。
「よし、次は県一位だな」
喜びもつかの間、直ちに、厳しい練習が再開されました。

夏は暑く冬は寒い体育館での練習。

遊びの誘いも断って通い続け、ついに県一位となります。

こんなにうれしいことはないと、ほっと一息ついた途端・・・
「じゃあ次は地方一だな。頑張れ!」
県代表として強化練習に参加することになります。

毎日十時間に及ぶ過酷なスケジュールにも耐えて、臨んだ地区大会。

そこでとうとう優勝し、たどり着くところまでたどり着いたと思いました。

それでも先生は、
「次は全国だな」
このころから、自分の道に疑問を持つようになります。

「頑張れ、頑張れ」と言われるが、どこまでいけば安心できるのだろうか。
重荷を背負った道が、宇宙の果てまで続いているのではないだろうか。

「死ぬまで求道」の絶望にぼんやりと気づき、次第に力が入らなくなったとその人は言います。

「自分はなぜ、空手をやっているんだろう」

不安を抱え、臨んだ全国大会は予選敗退。

落ち込むところへ先生がかける言葉は
「来年は頑張れ」

ドラマなら、悔しさをバネに立ち上がる場面でしょう。

しかし、その人には、その言葉がうっとうしく感じられたのです。

それでも練習を続けていた高校二年の時、体の不調を感じ始めます。

病院に行くと
「身体に負担がかかるので空手はもう二度とやらないほうがいい」
とのドクターストップ。

聞いた途端頭が真っ白になります。
「今まで耐え抜いてきた十年間は一体何だったんだ?」

「死ぬまで求道」に完成はありません。

親鸞聖人のみ教えに出遇い、徹到のある信心を知ってこそ、「人間に生まれて良かった」という真の満足が獲られます。
完成のある道を知り得なかったら、いったいどうなっていたことでしょうか。

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