By ゆうと | 7月 9, 2009 - 11:03 am - Posted in どんなに信じていても…, 信心とは

親鸞会発行の「こんなことが知りたい」の中に、信心について高森顕徹先生が答えられているところがあります。


私は高校生ですが、なぜ宗教が必要なのか分かりません。
信心なんて古くさいものはいらないように思います。必要な理由を教えて下さい。


信心はなぜ必要なのかと仰有いますが、私達は何かを信じなければ生きてはゆけないからです。
信心とは、何かを心で信ずることです。
信ずるということは言葉をかえればたよりにする、あて力にするということです。

私達は何かをたよりにし、あて力にしなければ生きてはゆけません。
即ち、何かを信じなければ生きておれないのです。

妻は夫を信じ、夫は妻を信じ、親は子供をたよりにし、子供は親をあて力にして生きております。
その他、自分の身体や生命、財産や金銭、家や名誉や社会的地位等、何かをあて力にして人間は生きております。

だから生きるということは信ずることなのです。

神や仏を信ずることだけが信心ではありません。

昔から鰯の頭も信心からと言われますが、つまらぬものでも信じていればその人の信心です。
だから総ての人は何らかの信心をもっているのです。

ところが私達は、ただ生きているのではありません。
幸福を求めて生きている人ばかりです。
そして一切の苦しみ悩みを厭うております。

苦しみ悩みはどこから起きるのか考えてみますと、信じていたものに裏切られた時に起きて来るのです。

病人の苦悩は健康に裏切られたからであり、家庭の悲劇は夫を信じ切っていた妻が、夫に裏切られたからです。

子供に裏切られた親、親に裏切られた子供。

家の子供にかぎってと深く信じていればいる程、裏切られた時の親の苦悩や悲しみ怒りは大きいのです。

これで分かるように我々は何かを信じなければ生きてはゆけませんが、
やがては我々を裏切ることのあるものを信じて生きるということは馬鹿げたことです。

では、この世で生命をかけて信じても後悔のない、謂、絶対に裏切ることのないものはあるでしょうか。

結論を急ぎましょう。何もないのです。

この世の一切は死ぬ時にはなんのあて力にもなりません。
この肉体さえ焼いてゆかねばなりませんから。
今死ぬという時でも変わらぬもの、それは三世諸仏をして成仏せしめた本師本仏の阿弥陀仏あるのみです。
釈尊の先生である阿弥陀仏の本願によらねば、絶対に救われない、ということが改めて知らされます。

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