By ゆうと | 9月 26, 2009 - 11:23 am - Posted in 信心とは, 正しい信心

私たちは、みんな何かを信じて生きている、いわゆる信心を持っています。

そして、信じていたものに裏切られたときに、苦しみ、悩みます。

しかも、深く信じていればいるほど、それらに裏切られたときの悲しみや

怒りは大きくなります。

私たちは、けっして、苦しんだり、悲しんだりするために、生まれてきたのでは

ありません。生きているのでもありません。幸福を求めて生きています。

では、裏切らないものを信じて、私たちは生きているでしょうか。

たとえ、70年、80年、信じられるものがあったとしても、最後、私たちは

死なねばなりません。 いよいよ死んでいくときには、信じていた家族も、

健康も、財産も、すべて我が身から離れて、この肉体さえも焼いてゆかねば

なりません。

裏切るものばかりを信じて生きているから、苦しみ、悩みがたえないのだ、

本当の幸福になりたければ、絶対に裏切ることのない、正しい信心を持ちな

さいよ、と親鸞聖人が教えられているのが、正信偈であります。

正信偈の「正」という字は、一に止まる、と書きます。正しいものは一つしかない、

ということです。 では、その唯一つしかない、正しい信心とはなんなのか、

次回からお話したいと思います。

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親鸞聖人が、その生涯をかけて書き残された大著が、教行信証六巻です。

ですから、教行信証には、親鸞聖人90年の教えのすべてがおさまっています。

その教行信証を、圧縮されたのが「正信偈」であります。

「帰命無量寿如来 南無不可思議光」ではじまる、一行七文字、120行で、

全部で840字です。

漢字ばかりで書かれていますので、お経だと思っている人がありますが、

正信偈はお経ではありません。お経はお釈迦様のお言葉を書き残したもの

ですが、正信偈は親鸞聖人の書かれたものですから、お経とは違います。

「偈」とは、歌、ということですから、正信偈は、正しい信心の歌、ということです。

「信心」と聞くと、自分とは何の関係もないことだと思われる人もあるかもしれませんが、

私たちは何かを信じなければ、一日たりとも生きてはおれません。

たとえば、明日も生きておれる、と生命を信じて生きています。

いつまでもたっしゃでおれる、と、健康を信じて生きています。

夫は妻を、妻は夫を信じ、親は子供を、子供は親を信じて生きています。

金の信心もあれば、名誉や地位の信心もあります。

共産主義者は、共産主義を信じている人たちです。

神や仏を信ずるだけが信心ではありません。何かを信じておれば、それはその人の

信心です。 何を命として信ずるかは人それぞれですが、すべての人は何かの信心

を持って生きているのです。 生きるということは、イコール信ずることだということです。

ところが、私たちは、信じていたものに裏切られたときに、苦しみ、悩みます。

(次回に続く)

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By ゆうと | 7月 9, 2009 - 11:03 am - Posted in どんなに信じていても…, 信心とは

親鸞会発行の「こんなことが知りたい」の中に、信心について高森顕徹先生が答えられているところがあります。


私は高校生ですが、なぜ宗教が必要なのか分かりません。
信心なんて古くさいものはいらないように思います。必要な理由を教えて下さい。


信心はなぜ必要なのかと仰有いますが、私達は何かを信じなければ生きてはゆけないからです。
信心とは、何かを心で信ずることです。
信ずるということは言葉をかえればたよりにする、あて力にするということです。

私達は何かをたよりにし、あて力にしなければ生きてはゆけません。
即ち、何かを信じなければ生きておれないのです。

妻は夫を信じ、夫は妻を信じ、親は子供をたよりにし、子供は親をあて力にして生きております。
その他、自分の身体や生命、財産や金銭、家や名誉や社会的地位等、何かをあて力にして人間は生きております。

だから生きるということは信ずることなのです。

神や仏を信ずることだけが信心ではありません。

昔から鰯の頭も信心からと言われますが、つまらぬものでも信じていればその人の信心です。
だから総ての人は何らかの信心をもっているのです。

ところが私達は、ただ生きているのではありません。
幸福を求めて生きている人ばかりです。
そして一切の苦しみ悩みを厭うております。

苦しみ悩みはどこから起きるのか考えてみますと、信じていたものに裏切られた時に起きて来るのです。

病人の苦悩は健康に裏切られたからであり、家庭の悲劇は夫を信じ切っていた妻が、夫に裏切られたからです。

子供に裏切られた親、親に裏切られた子供。

家の子供にかぎってと深く信じていればいる程、裏切られた時の親の苦悩や悲しみ怒りは大きいのです。

これで分かるように我々は何かを信じなければ生きてはゆけませんが、
やがては我々を裏切ることのあるものを信じて生きるということは馬鹿げたことです。

では、この世で生命をかけて信じても後悔のない、謂、絶対に裏切ることのないものはあるでしょうか。

結論を急ぎましょう。何もないのです。

この世の一切は死ぬ時にはなんのあて力にもなりません。
この肉体さえ焼いてゆかねばなりませんから。
今死ぬという時でも変わらぬもの、それは三世諸仏をして成仏せしめた本師本仏の阿弥陀仏あるのみです。
釈尊の先生である阿弥陀仏の本願によらねば、絶対に救われない、ということが改めて知らされます。

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By ゆうと | 7月 1, 2009 - 10:45 am - Posted in 信心とは, 正しい信心を明らかにされた親鸞聖人

ブッダが誕生なされた時代はどうだったか分かりませんが、とにもかくにも現代人は多忙です。

現実から逃避して、行雲流水のようにひょうひょうとした生き方を望みたい気持ちもわかります。

しかし、混迷の時代に生き抜かれた親鸞聖人の生きざまは、波乱万丈そのものでありました。

たくましき親鸞、と驚く人も多いのですが、聖人は、それも、阿弥陀仏からの賜りもののおかげだと言われています。

ご和讃に、
「金剛心なりければ」
と言われたのは、
「真心徹到すれば、金剛心を頂くのだ」
ということです。

金剛石といえば、ダイヤモンドのこと。
軟らかい餅は、踏めばつぶれて形が崩れますが、世界一硬い鉱石であるダイヤモンドは、ちょっとやそっとのことでは壊れません。

「金剛心」とは、そんなダイヤモンドのごとく絶対に壊れない信心のことで、次のようにも教えられています。

「如何なる人来りて云い妨ぐとも、すこしも変らざる心を金剛心という」
(後世物語聞書)

どんな偉い人が、どれだけ大勢やってきて、「おまえの信心は間違いだ」と一斉に非難したとしても、決して微動だにもしない心のことです。

「弥陀の本願まことだった」
とハッキリした鮮明不動の金剛心を弥陀より獲得すれば、どんなにあざけり笑われ攻撃されようとも弥陀の誓願を伝え切る信念と前進を、何ものも妨げることはできないのです。

「この真実どうか分かってもらいたい」
と、独り突き進まれた聖人の、激しさ、厳しさ、たくましさの秘密は、弥陀より賜った金剛不壊の大信心にあったのです。

親鸞聖人が我々に伝えようとしているのも、この金剛不壊の大信心です。

その意思を受け継いで、親鸞会では法話を通して真実の信心一つを皆さんにお伝えしています。

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By ゆうと | 6月 24, 2009 - 10:21 am - Posted in 正しい信心を明らかにされた親鸞聖人

「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ」
(教行信証)

「まことだ!本当だ。弥陀の誓いにウソはない。
皆々聞いてもらいたい、この親鸞が生き証人だ。
早く、弥陀の誓願まことを知ってもらいたい」

これは、親鸞聖人ご自身が、29歳の御時、真心徹到された、感激に満ちた告白です。

「摂取不捨の真言」も「超世希有の正法」も、ともに弥陀の誓願のこと。

弥陀の誓願とは、“すべての者を、絶対の幸福にせずにはおかぬ”という、本師本仏の阿弥陀仏のお約束です。

友人に貸している大金が返ってきた時に、“彼の誓約は本当だった”と、それまでの疑いが晴れるように、絶対の幸福になった時、
「弥陀の誓願まことだった」
とハッキリします。

だから「まことなるかなや」とは、弥陀の誓願どおりに、絶対の幸福に救い摂られた聖人の、真情あふれる歓喜の叫びです。

私たちが人間に生まれてきたのは、この親鸞聖人と同じ絶対の幸福に救われるためです。
親鸞会は、親鸞聖人が伝えられたことを、そのまま皆さんにお伝えしている集まりです。

聖人はこの体験を、「信心獲得」とか「信心を獲た」とも言われています。

真実信心は、本師本仏の阿弥陀仏から賜る、「他力の信心」だからです。
「他力」とは阿弥陀仏のお力のこと。

だからこれは、永い間、求め続けてきた真実の信心を弥陀より賜り、人生の目的成就なされた聖人の、驚嘆のお言葉なのです。

ところが、人生の目的に完成があると言われると、
「目的を達成すると、することがなくなってしまうのではないか」
との杞憂を時々聞きます。

しかし、それは全く反対です。

学校を卒業してから、社会での活躍が始まるように、人生の目的達成してからが、本当の活躍の始まりなのです。

親鸞聖人の、あの不惜身命の大活躍も、信心獲得の29歳から始まったではありませんか。

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By ゆうと | 6月 13, 2009 - 9:50 am - Posted in 正しい信心

親鸞聖人による書物に「正信偈」というものがあります。

一体何が書かれているのか、それはこの書物の名に表されています。

“偈”とは「うた」ということですから、正信偈は、「正しい信心の歌」ということです。

親鸞聖人は私たちに「正しい信心」「真実の信心」を教えられ、はやく正しい信心を獲得し、未来永遠の幸福になってもらいたい、と念じておられるのです。

しかし、漢字ばかりで書かれているためか、「正信偈」をお経だと思っている人がありますが、それは誤りです。
「正信偈」はお経ではありません。

「お経」とは、お釈迦様のご説法を弟子が書き残したもので、どのお経も「仏説○○経」とあります。

浄土真宗のお経といえば、大無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の3つがありますが、それぞれ、仏説無量寿経、仏説観無量寿経、仏説阿弥陀経と正式には言われます。

「仏説」とは「仏さまが説かれた」の意で、「仏さま」とはお釈迦さまのこと。
それに対して「正信偈」は、親鸞聖人の書かれたものです。

「なんとか伝えたい。知ってもらいたいことがある」

と、親鸞聖人が泣く泣く筆を執られ、一字一涙で書かれた「正信偈」には、聖人90年の教えのすべてがおさまっているのです。

「正信偈」の「正」という字は、「一に止まる」と書きます。
正しいものは一つしかないということ。
二つも三つもあるものではありません。

そのただ一つの正しい信心を、親鸞聖人が明らかになされているのが「正信偈」です。

ですから親鸞聖人は
「なんでもかんでも、その人がいいと思ったものを信じて生きればいい」
などとは、決しておっしゃっていません。

「正しい」信心があるということは、そうでない信心がある、ということ。
すなわち、迷信、邪信、偽信といわれるものです。

それら間違っている信心は、必ず裏切られて苦しまねばなりません。だから、間違った信心を捨てよ、と教行信証に徹底的に書かれています。

皆さん、一日も早く「正しい信心」「真実の信心」を獲得して、死の巌頭にも崩れない「絶対の幸福」に救い摂られてくれよ、と念じ、叫び続けている方が親鸞聖人なのです。

その「正しい信心」一つを明示されたのが「正信偈」です。

親鸞会では、毎月の法話会で、正信偈のお言葉の意味を解説しています。

正信偈の冒頭の

「帰命無量寿如来 南無不可思議光」

の二行は、聖人ご自身が、その「正信心」を獲得しての生々しい感動、喜びの体験を告白しているお言葉なのです。

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By ゆうと | 6月 5, 2009 - 6:00 pm - Posted in 「死ぬまで求道」, 信心に関してのいろいろ

親鸞会で仏法を聞き求める人から聞いた体験談です。

小学校に入る前から始めている空手。

道場の先生は厳しく、練習は過酷ですが、徐々に実力がつき、道場の代表として市で優勝するまでにいたります。

手にした金メダルに、今までの苦労は吹き飛びました。

しかし先生は、何気なく言うのです。
「よし、次は県一位だな」
喜びもつかの間、直ちに、厳しい練習が再開されました。

夏は暑く冬は寒い体育館での練習。

遊びの誘いも断って通い続け、ついに県一位となります。

こんなにうれしいことはないと、ほっと一息ついた途端・・・
「じゃあ次は地方一だな。頑張れ!」
県代表として強化練習に参加することになります。

毎日十時間に及ぶ過酷なスケジュールにも耐えて、臨んだ地区大会。

そこでとうとう優勝し、たどり着くところまでたどり着いたと思いました。

それでも先生は、
「次は全国だな」
このころから、自分の道に疑問を持つようになります。

「頑張れ、頑張れ」と言われるが、どこまでいけば安心できるのだろうか。
重荷を背負った道が、宇宙の果てまで続いているのではないだろうか。

「死ぬまで求道」の絶望にぼんやりと気づき、次第に力が入らなくなったとその人は言います。

「自分はなぜ、空手をやっているんだろう」

不安を抱え、臨んだ全国大会は予選敗退。

落ち込むところへ先生がかける言葉は
「来年は頑張れ」

ドラマなら、悔しさをバネに立ち上がる場面でしょう。

しかし、その人には、その言葉がうっとうしく感じられたのです。

それでも練習を続けていた高校二年の時、体の不調を感じ始めます。

病院に行くと
「身体に負担がかかるので空手はもう二度とやらないほうがいい」
とのドクターストップ。

聞いた途端頭が真っ白になります。
「今まで耐え抜いてきた十年間は一体何だったんだ?」

「死ぬまで求道」に完成はありません。

親鸞聖人のみ教えに出遇い、徹到のある信心を知ってこそ、「人間に生まれて良かった」という真の満足が獲られます。
完成のある道を知り得なかったら、いったいどうなっていたことでしょうか。

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By ゆうと | 5月 24, 2009 - 5:43 pm - Posted in 「死ぬまで求道」, 信心とは

「真心徹到」とは、真実の信心には「徹到」があると言われたことです。

「徹到」とは、到るべきところへ行き着いた、完成、卒業ということです。
だから「真心徹到」とは、真実の信心には完成、卒業があるということです。

この聖人の断言に、驚く人も多いでしょう。

なぜなら、「信心には、死ぬまで完成など目あろうはずがない」
これがあらゆる宗教はもちろん、世の常識となっているからです。

なるほど、学問や芸術、科学、医学、剣道、柔道、書道、茶道、華道・・・

各人が命として信じているものはどこまで究めても、卒業もなければ完成もない道ばかり。

だから「死ぬまで求道」といわれるのはもっともです。

「それがいいんだ、完成したと思ったら進歩がない」

「『死ぬまで求道』こそが素晴らしいのだ」

たいていの人は、そう言うに違いありません。

ですが少し落ち着いて考えてみてください
「『死ぬまで求道』が素晴らしい」なんて、ナンセンスではありませんか。
なぜなら、求めるのは、「求まる」ことを前提としているからです。
死ぬまで「求まらない」と知りながら求めるのは、絶対に当たらないと分かっているのに宝くじを買い続けるようなもの。
どうして“それでいいんだ”と言えるでしょうか。

ゴールのないマラソンは走り倒れの悲劇あるのみです。
同様に「死ぬまで求道」の人生は苦しむだけの一生で終わります。

そんな中で「真心徹到(信心に完成がある)」と言われたのは、今救われたという決勝点がある、

求めていた裏切らぬ幸福になったという時がある、との驚くべき聖人の一大宣言なのです。

私たちは、決して苦しむために生まれてきたのでもなければ、辛い思いをするために生きているのでもありません。

本当の幸福になるために生きているのです。

だから「真心徹到」こそ、万人の願いであり「生きて、何をするか」の答えなのです。

どんなに苦しくとも、この身になるまで生き抜きなさいよ、と親鸞聖人は人生の決勝点を明示なされています。

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By ゆうと | 5月 18, 2009 - 5:34 pm - Posted in 信心とは, 正しい信心

朝晩、拝読している正信偈。
その後に、親鸞聖人の書かれたご和讃を拝読します。
6つのご和讃の中の、3番目は、

真心徹到する人は
金剛心なりければ
三品の懺悔するひとと
ひとしと宗師はのたまえり

です。

最初の「真心」とは、「真実の信心」のことです。
日本人には特定の宗教を信じている人が少なく、「信心」なんて自分とは何の関係もないものと思っている者が多くあります。

しかし仏や神を信じることだけが信心ではありません。

信心とは心で何かを信じ、頼りにすることです。

子供は親を、親は子供を信じ、夫は妻を、妻は夫を頼りにして生きています。
金や財産、才能や能力を支えとしている人もあるでしょう。

私たちは、何かを信じなければ生きてはいけません。

だから生きるとは信じることだともいえます。

明日もあるという命の信心、達者でおれると思っている健康信心、金の信心や、財の信心、権力信心、名誉信心・・・

“何を”命として信じるか、また、“その信じ方”は、一人一人異なります。
だから人生いろいろ、信心もいろいろなのです。

ところが、私たちは信じていたものに裏切られた時、苦しみ悩みます。

病苦であえぐ人は、健康の支えが傾いたといえましょう。
失恋に泣くのは、恋人に裏切られたから。
信じていたものに裏切られた時、人は悲しみ、苦しみます。
では私たちは、裏切らないものを信じて生きているのでしょうか。
死に直面した時、それまで頼りにしてきた一切のものに裏切られ、たった一人で暗黒の後生へと旅立っていくのです。

だから、何を手に入れても、安心も満足もないのです。

ならば、「一体、何をすればよいのか」と、途方に暮れるのも当然でしょう。

「やがて必ず裏切るものを信じているから、死ぬまで苦しみ悩みが絶えないのだ。
本当の幸福になりたければ、絶対に裏切ることのない正しい信心を持ちなさいよ」

その一切のほろびる中に滅びざる、真実の信心の厳存を明示されたのが親鸞聖人です。
その真実信心を略して「真心」と言われています。

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信心について、もっと学んでみましょう。
経典に説かれている話を紹介します。

とある金持ちの男が三人の妻を囲って贅沢に暮らしていました。
第一夫人を最も愛しており、何事にも気遣って機嫌を損なわせることはありません。
第二夫人は他人と争ってまで手に入れた夫人で、いつも自分の傍に置いています。
第三夫人は寂しいときや困ったときに逢っていました。
ところが、やがて男は身体を壊し病床に伏すようになります。
死を恐れる彼は第一夫人に死出の旅路に同道するよう頼みます。
ところが「他のことならともかく、死に同道することはできません」
と、すげない返事。
次に、第二夫人に同じことを頼みます。しかし、
「貴方が私を求められたのは、貴方の勝手です。私から頼んだのではありません」
と、こちらも冷たい返事。
最後に恐る恐る第三夫人にすがってみると、
「村外れまでなら同道させていただきますが、そのあとは堪忍してください」
と突き放されてしまいます。

この話は実は喩え話となっています。
男に喩えられているのは、この世の全ての人間です。
第一夫人は肉体、第二夫人は金銀財宝、
第三夫人は父母妻子兄弟朋友などを喩えられています。

それまでにどんなに大切にして愛していたものでも、
死の際にはそれら一切のものから見放され、
どれひとつとして力になるものがなかったと驚き悲しむ・・・
これが人間の実相です。

たとえ長年信じているものがあったとしても、
私たちはいずれ死ぬことになります。

そのときには信じていた家族や、お金や財産、名誉にも裏切られ
最も大事なこの肉体さえも焼いていかなければならないのです。

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